|
礼拝メッセージ
2004年7月11日
「きよめ、聖霊によって歩む」
ガラテヤ人への手紙5章13-24節
福音を伝えていくと、時々こんな疑問をぶつけてくる人がいます。
「じゃあさー、信じれば救われるんだから、自分の死ぬ寸前に信じればいいじゃん。それまで好き放題生きても、死ぬ寸前に信じれば、天国に行けるんでしょ。」
もちろん死ぬ寸前に信じたとしても、その人は救われて、天国(神様の国)に入るでしょう。しかし多くのクリスチャンは、自分はもっと若い時に信じて救われていれば良かったといいます。なぜかというと、神様と共に生きることが、好き勝手に生きるよりも楽しく意味があるからです。
13節「あなたがたは、自由を与えるために召された」
人はよく神様を信じて生きるということは、色々な規制を受けて生きることで自由がなくなると感じています。でも聖書では、信じる者は自由が与えられると言っています。それはつまり、好き勝手に生きていると思っていても、それは実は自分の肉の欲望に支配されて生きているのです。人によっては「お金」が神様になっていて、お金に支配された人生を送っていたり、人によっては「人間関係」が心の大部分を占めていて、そのことに支配された状況になっています。神様を信じるということは、それらの自分を支配する「神のような存在」から自由にされて、本来私たちが信頼をおくべき神様を信頼することができるようになることです。
私たちは自由にされたとは言え、まだ色々な欲望が心の中にあり
もう救われていて最後は必ず天国に入るんだから、心の欲望に従って好き勝手に生きるのではなく、神様と共に生きること、神様の前にあって正しく生きることを選びなさいと聖書では教えています。今日の聖書箇所では、「御霊(みたま)によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と言っています。(16節)
御霊によって歩むと、どんな結果があるか
私たちは22-23節にあるような実を自分の内に発見するようになります。神を愛し、人を愛することができるようになります。神様に遣わされた者として、周りの人に神様のことを伝えていける者になります。
御霊によって歩むにはどうすればいいか
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(24節)私たちは、神様に自分の罪の性質を捧げることができます。これを、罪の性質をイエス様の十字架のもとに持っていくことができるとも言います。「神様、このことをしたいと思ってしまいますが、これをあなたに捧げます」と祈ります。そしてその罪から離れる努力をします。すると聖書にある約束の通り、聖霊が与えられ、罪から離れられるようになっていきます。具体的には、どのような罪を神様の前に捧げるべきかと言うと、19-21節にある「肉の行い」を参考にして考えてください。または、自分が神様を愛せない、人を愛せないという心があったら、それを神様に捧げてください。
|