礼拝メッセージ
2005年2月6日

「この方で間違いない」
マタイの福音書 17章1-9節

鈴木 光 (神学生インターン)

   今日はこの聖書箇所から特に、「神様があなたを、わたしを目的を持って呼んでいる」ということを考えていきたいと思います。
   一度読んだだけで分かると思いますが、今日の箇所はイエス様が変身する話が書いてあります。それが非常に印象に残るので、「ああ、イエス様って変身するんだ」ということしか頭に残らないかもしれません。でも、実はこの聖書箇所は「イエス様は変身できる方だ」ということよりも、もっと重要なことを語っているのだと思います。

<それから六日>
   いきなり気になるセリフから今日の箇所ははじまります。「それから六日たって」
   それからっていつだよ?と思わず突っ込みたくなると思います。まずそれを確認しなければ話が始まりません。では六日前に何が起こったのかを確認してみましょう。今日の箇所の前の章の16章13-16節を読んでみましょう。六日前に起こったことが書いてあります。

ペテロの信仰告白「あなた(イエス)は生ける神の子キリストです」。
  つまり、六日前に起こったことというのは、ペテロが「みんなはあなたのこと色々言ってますが、わたしはイエス様、あなたを『生ける神』、『生ける神の子』キリストだと信じてます」という信仰告白をした、ということなんですね。

イエスの目的告白「わたしは十字架にかかって殺され、三日目によみがえります」。
   そしてさらに、16章21節を見てください。ペテロが信仰告白をしてから、イエスはついに、「自分は十字架にかかって殺されるけど三日目によみがえりますよ」と弟子たちにハッキリと言い始めたのです。いわば、イエス・キリストの人生の目的をついに公開したわけです。十字架にかかって殺されて、三日目によみがえる。これがキリストの人生の目的です。
   このペテロの信仰告白と、イエスの目的告白はとても重要なことです。なぜなら、ペテロがハッキリと信仰を告白できたことで、イエス様が「よし、ついに準備ができた。ついに、この弟子たちに全部を明らかにして、十字架の計画を実行できる」という思いに至ったからです。
   言い換えるなら、もしペテロでも他の弟子でも、誰も「あなたは生ける神の子です」という信仰を持ってくれていなかったら、イエスは十字架の計画をまだ実行に移せなかったからです。

   想像してみてください。もしここでペテロが「あなたはかなりイケてる預言者です」とか、「世界一の聖書の先生です」と答えるだけで「あなたは『生ける神の子だ』」と言わなかったらどうでしょうか?
   それでは、もしイエスが十字架にかかって死んでも、「ああ、あの先生かなりイケてたのに殺されちゃったよ、残念!でも人間だし、死ぬ時は死ぬよね、運が悪かったよね」と思うだけだったでしょう。「人間だから、死んで当然。仕方ない」と思うだけです。
   しかし、ペテロは「あなたは生ける神の子だ」という信仰にたどりつきました。イエスが神ならば、話は全然違ってきます。イエスが神の子なら、イエスが死んだ時に、「なぜ、神の子が死ぬんだ?罪のない神が人間の手で殺されるってどういうことだ?は、そうか、人間の罪のために、人間が悪いから、神が死ぬことを選んだんだ!」ということに気づいてもらえるわけです。
   つまり、このペテロの告白は、神が人間の罪のために死ぬ計画の引き金だったんです。トリッガーだったんです。彼がこの告白をしなければ、イエスの死の計画がなかなかはじめられなかったのです。

   十字架の計画はついに引き金が引かれました。さあ、ついにイエスは死ぬための一歩を踏み出すことになった。これが、「それから六日」の「それ」です。六日前の出来事です。

<1節>
さあ、それから六日。計画の引き金が引かれて六日後にイエスは何をしたんでしょうか?

「三人」を「選んで」、「高い山」に導いていった。 → 何かをする目的があった。
   山登りです。山登りですが、まず、「ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて」という所に注目してください。三人の弟子だけを「選んで」「導いて」いったのです。ここから分かるのは「明らかにイエスには何か目的があった」ということです。いいですか。ただ漠然と「お-い、わたし山登り行くけど、一緒に行くやつこの指止-まれ」というものではなかったんです。この三人じゃないとダメだったし、高い山じゃなきゃダメだったんです。この「三人」に、そして、この「高い山」に目的があってイエスは導いて行ったんです。

<2節>
変身は目の前で。→ 弟子たちに明らかに分かるように。
   ここで注目したいのは、イエスがどのように変身したかではなく、「彼らの目の前」でという所です。これはつまり、三人の弟子たちに明らかに分かるように、ということです。少なくとも彼ら自身には言い訳ができない明確さで自分を示した、ということです。

   しかしですね、この短い二節の中でかなりスゴイことが書いてあると思いませんか?
   山登り、そして変身です。ちょっと皆さんですね、弟子たちの気持ちを想像してみて下さい。
   「山登りって何だろう。何するんだろうドキドキ」と思って登ってみたら「うお、変身しちゃったよこの人!」
   もう、ビックリですよね。度肝をぬかれたに違いありません。
   しかし、みなさん、これで終わりではありません。さらにビックリは続くんですね。

<3節>
   山に連れて来られて、いきなり変身したと思ったら、すごい人たちと話してるよ、何だよコレ-。という感じですね。

   といっても、この「モーセ」と「エリヤ」が何者かわからないと、みなさんにとってはあんまりビックリではないですよね。「え、誰…?」程度なものだと思います。でも、この二人「モーセ」と「エリヤ」には深い深い意味があるんです。

モーセ:ユダヤ人をエジプトから脱出させた、出エジプトの主人公的存在。
   まず、モーセはみなさんご存知の方も多いでしょうし、詳しくなくても「海割った人だ」とか「プリンス・オブ・エジプト」の人だ、ということは知っているかもしれません。そうです。出エジプト記の主人公でもある、エジプトからイスラエル民族を連れて脱出した超大物です。それだけ知ってれば十分です。

エリヤ:すごい預言者。
   ではエリヤは誰でしょう。これは馴染みのない人にはピンと来ないかもしれませんが、ユダヤ人なら誰でも知ってる、旧約聖書に出てくる超有名な預言者の一人です。
   イエス様の生まれる900年くらい前のイスラエルで、当時の権力者たち、つまり、王様や王妃の不信仰や偶像礼拝がひどかったんですね。それを、このエリヤという人は、もうザッパンザッパン責めまくり、批判しまくり、世直しをしまくった上、最後は生きたまま天に上げられて神様のもとに行った、という超大物なわけです。死なないで生きたまま天国行ったのは彼を含めてたったの二人です。もうどれくらい大物か分かるわけですね。

  では、なんでこの二人が出てきたんでしょうか?

モーセとエリヤの共通点 → 山と神様。
   実はこの二人、「モーセ」と「エリヤ」には重要な共通点があるんです。それは、「山で神様に実際に会ったことがある」ということなんです。そうです。山です。実はこの二人はそれぞれ、山の上で神様から声を受けて、新しい使命を与えられる、という経験をしているんですね。そうです。山といえばこの二人なんです。当然、「高い山に導いて行かれた」と言われたらこの二人が出てくるわけです。だから、弟子たちも一発で分かったんですね。ユダヤ人でしたから。あの超大物、モーセとエリヤが出てきてイエス様と話してるよ、おい!と思ったわけです。

   ここまでの弟子の気持ちをもう一度考えてみましょう。
ドキドキしながら山に連れてこられました。そしたらイエス様変身です。さらに、今地上にいるわけがない超大物が二人出てきてイエス様と話しています。もう、何だよ、これ、何だよ。という感じです。そこで、出てくるのが次の節のペテロのセリフです。

<4節>
ペテロびっくり、気が動転。
   これどういう意味でしょうかね?これだけだとちょっと分かりづらいので、同じ出来事を違う視点で書いているマルコの福音書を参考に見てみましょう。開けなくていいです。僕が読んでみるので、聞いていてください。マルコの福音書9章5 - 6節「するとペテロが口出ししてイエスに言った。『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。」

   つまり、もうあんまりビックリしすぎたせいで、自分でもよく分かんない事言っちゃったんですよ。こういう経験したことある人いますよね。あまりに動転しちゃって、黙って考えることもできなくて、もう何かわけ分かんないこといっちゃうんですね。ペテロはまさにその状態だったわけです。

   さあ、ではここまでの所でいったん切って、ちょっと振り返って見ましょう。一節の所でイエス様は「目的を持って、『三人』を選んで、『山に』連れて行った」ということが分かりました。では目的って何だったんでしょうか?ここまでの所で考えてみるならば、ひょっとして変身する所見せたかったのでしょうか?それとも、超有名人が出てきて友達よろしくお話している所を見せびらかしたかったんでしょうか?あるいは、ペテロに三人分の幕屋を建ててもらうことが目的だったんでしょうか?もちろんどれも違います。それはイエス様の目的ではありません。では、何が目的だったんでしょうか?

<5節>

  • モーセやエリヤ=神に仕える人間のリーダー。 ⇔ イエス・キリスト=神そのもの。
  • 神様の声=「確かにお前たちの信じるイエスは、わたしの愛する者。彼に聞き従いなさい。」 → このセリフが弟子たちを山に連れてきた目的。

   ペテロが「幕屋を建てます」と思わず変てこなことを言い出したんですが、「そんなことさせようと思って連れてきたわけじゃない」とばかりに、ペテロが最後まで言い終わる前に神様の声が聞こえてきたんです。
   光り輝く雲がその人々を包み、その雲の中から声がした、ということが書いてあります。「雲」というのは神様が人前に出てくる時によく使う方法です。いわば、神様が「ここにいるぞ」という証です。そしてそこから神様の声が聞こえてきたわけです。何と言われたのでしょうか。
   「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」
   こう言われたわけです。
   これです。まさにこれを伝えることがイエス様の、そして同じく神様の目的だったんです。
   では、この言葉にどんな意味があるのでしょうか?
   この短いセリフをより深く理解するために、さっき出てきた、イエス様と一緒にしゃべっていた二人、「モーセ」と「エリヤ」の場合と比べて考えてみましょう。さきほど言いましたが、彼らも山で神様から言葉を語られたわけです。
   まず、モーセの方を見てみます。出エジプト記の19章3節「モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。『あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。』」
   次にエリヤの場合。また聞いていてください。第一列王記19章13節から。
   「すると、声が聞こえてこう言った。『エリヤよ。ここで何をしているのか。』エリヤは答えた。『私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。』主は彼に仰せられた。『さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。』」
   では、もう一度、イエス様の前で、弟子たちに語られた言葉を聞いてみましょう。
   「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」
   もちろん、違いとしては、すごく短い、というのもありますが、そもそも雰囲気として、モーセやエリヤの時と随分違うと思いませんか?
   たとえて言うなら、モーセやエリヤに対しては新入社員の部下に対して、上司が「いいか、これはな」と言っているような感じで神様は語っています。が、イエス様に関するこのセリフは、いわば、自分の信頼できる同僚を紹介して、「彼は私の最も信頼できる仲間だから、この人の言うとおりにやりなさい」と委任しているような感じがします。
   あるいは、もしお母さんをたとえにとって考えてみるなら、モーセやエリヤの場合、お母さんが小さい子供が、「なんで-、どうして-、ぶ-ぶ-」といってくるのに対して、「いい、それはね、これこれこうするのよ。こうだから、こうなのよ」と言い含めるような感じで、それに対してイエス様に関するセリフは、旦那に向かって、「ね-、あなた、あの子に服着せといて」とか「算数教えてあげて」とか言っているような感じがします。
   ひょっとしてややこしいたとえだったかもしれませんが、つまり、モーセやエリヤは、人間の中にたてた、人間のリーダーだったんですね。だから、神様は一生懸命「いいか、こうだぞ、こうだぞ」と指示してきたのです。
   ところが、このイエス様に関してはたった一言「これは、『わたしの愛する者』だから、彼の言うことを聞いてくれればいいよ」と言えばよかったんですね。

   神様とイエス様が三人の弟子を選んで、山に連れてきたのは、このためだったんです。「あなたは生ける神の子です」と信仰を告白したペテロに、神ご自身が「確かにその通り。お前が信じているイエスは、間違いなく、わたしの愛する者、完全に信頼できるわたしの子、彼の言うことを聞いてくれて間違いないよ」という確認をしてくださったわけです。それが目的だったんですね

<6節>

  • 人は神に出会うと圧倒され、恐れ、ひれ伏す。
  • イエスがまさにその神だった!

   人は神の前にいるのだ、と気づいてしまった時、恐れるのです。ひれ伏さざるを得なくなるのです。しかも、恐ろしい事実を突きつけられた弟子たちの気持ちを想像してみてください。今までも確かにイエスを生ける神の子、と頭の中で信じていたかもしれないです。「きっとこの人は神の子だろう、すんごい実感があるわけじゃないけど、やっぱりそう信じても間違いなさそうだよなあ」程度だったかもしれません。しかし、今はハッキリクッキリと「イエスは神と同等のものだ」と示されてしまったわけです。「やっぱりイエスは神なのだ。神と同等のものだったんだ。ホントだったんだ。ホントだったんだ。どうしよう!」と弟子たちは急に襲ってきたリアルな感覚にとてつもなく恐れたに違いないです。
   「今まで自分は神と共に生活してきたんだ、でもそれがどんなことなのかホントの意味では理解していなかったんだ-!」と思ったことでしょう。

  では、その恐れる弟子たちにイエスは、神であるイエスはどうしたでしょうか?
「やっと、気づいたか、バカめ!そうだわたしは神の子ぞ。もっと恐れ敬うがいいわ、がっはっは」と言ったでしょうか。違います。

<7-8節>
神であるのに、共に生きてくれる神。
   恐れる弟子たちのもとに、イエスは来られて、手を触れて、「起きなさい。こわがることはないよ」と声をかけたんです。目を上げると、いつものイエス様がいるんですね。「わしは神じゃ-、がっはっは-」何て言わない、神なのにも関わらずわたしと一緒に暮らしてくれるイエス様がいるわけです。
   でも、ペテロもヤコブもヨハネも、もう今までとは違う関係に入っていくのは確かです。イエス様は変わりません。同じように接してくれるでしょう。でも、いまや、この三人の弟子の方がハッキリとリアルに知ったんですね。「やっぱりこの人は間違いなく神だ、神の子だ」

<9節>
信じるもの → 神の栄光を見る。この順番。
   なんで話しちゃいけないんですかね。それはおそらく、言っても信じないからでしょうね。いや、それどころか、たとえイエスが変身しようが、神の声が聞こえようが、多くの人は信じないでしょう。
   逆に、まずこの三人が信じたからこそ、神様、イエス様は目的を持って、彼らを連れてきて、特別に、「その通り、この方こそ確かに神の子です」と示してもらえたわけです。

   三人と言いましたが、そうなんです三人なんですね。

あなたが目立つペテロでも、地味なヤコブ・ヨハネでも。
   大体いつもペテロばっかりが注目を浴びますが、僕はこのヤコブとヨハネ兄弟もきっとペテロと同じように信仰を持っていたのだと思います。だからこそ、この山に呼ばれたのではないでしょうか。確かにペテロはよくしゃべるし、良くも悪くも目立つ存在です。でも、目立つペテロだけを神様は選んだわけじゃないんです。
   ペテロに比べれば地味で見せ場のない、このヤコブとヨハネも選ばれたんです。そして神の栄光を見せてもらった。そして、やがて彼らはとても重要な使徒の働きを担っていくことになるのです。
   ここから皆さんに知ってほしいのですが、みなさんが目立つ性格であろうとなかろうと気にする必要はありません。同じ信仰を持って従うのなら、必ず神様はあなたを呼んで栄光を見せてくださいます。

信仰はうまくできた作り話じゃない。信じるものは、その目撃者となる。(第二ペテロ1:16-18)
   さて、九節にもう一度注目してみますが、イエス様は「いま見た幻を」言っちゃダメだよ-。と言っています。幻、という言葉は日本語で聞くと事実じゃない気がしてしまいますが、聖書で使われる「幻」という言葉は、「神様の栄光があらわれた光景」「神様の栄光のシーン」のことです。
   まさに彼らは、この山に呼ばれ、この山で主の栄光を見たわけです。
   後に、ペテロはこの時のことを振り返って、手紙に少しだけですが書いています。みなさん自身にあてて書かれた手紙だと思って聞いてください。新約聖書の第二ペテロの手紙1章16 - 18節です。開けなくてもいいですよ。僕が読んでみます。こう書いてあります。
   「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」
   信仰はうまく考え出した作り話ではありません。わたしたちは、信じて告白するなら、栄光の目撃者になるのです。
   みなさんどうでしょうか?栄光を見るまで信じない、というでしょうか?それとも三人の弟子のように、信じて告白し、その栄光の目撃者となりますか?

祈りの時
最後にみなさんそれぞれに考えてもらいたいことがあります。

ペテロの告白は一体なんなのでしょう?
   まだ聖書のことも教会のこともよく分からないという方は、ペテロの告白を思い出してください。彼は「イエスは生ける神の子だ」と告白しました。それはどういう意味でしょう?彼はなぜそう信じるようになったのでしょうか?

共に生きる決心を。
  あるいは、もしあなたがまだ信じるのに一歩踏み出せない方であるなら、今、少し考えてみてください。確かにイエスはいる。そして神の子なのだろう。そう思うのでしたら、信じて告白していく決心をすることを考えてみてください。神様は、「わたしは神だ-、おそれろ-、うやまえ-」という方ではありません。あなたと共に生きたいと思っているイエス・キリストなのです。信じ、告白して、共に生きることを選んでみませんか。やがて、栄光を見て、確かにこの人は神の子なのだと知ることになるはずです。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」の呼びかけに応えましょう。
   次に、すでに信じ、告白しているみなさんも今、考えてみてください。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」と、あなたに神様は呼びかけてくださいます。この呼びかけに誠実に答えましょう。その信仰で間違いない、いや、イエスはあなたが思っている以上に確かに神なのだ、というこの声を深く心に留めましょう。

  振り返ってみてください。

  高い山に登れといわれて従った弟子たちのように、素直に期待を持って神様に従っていますか?

   神様がここにいる、ということを感じて、主を恐れ礼拝していますか?

   そして、「こわがることはない」と声をかけ、手を触れ、共に住んでくださる、イエス様の確かに答えて生きていますか?

 

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