礼拝メッセージ
2005年7月3日

「休めるから安らぐ」
マタイの福音書 11章25節-30節

25節では賢い者や、知恵ある者にではなく、幼子たちに救いの福音が現わされたことを言っています。これは、自分が賢い者だと思っている人、知恵ある者だと思っている人にではなくて、素直な気持ちで信じる人に現わされたということではないでしょうか。人は賢いからではなくて、信じたから救いを受けるのです。

27節ではイエス様と、イエス様が「定めた人」だけが父なる神様を知ることができると言っています。ここで「定めた人」とは誰のことを言っているのか、幾つかの意見が出てくるところですが、私は「幼子のように素直にイエスを救い主として受け入れる者」が救いを受けると定められているので、そのような者達のことを言っていると信じています。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は」
本来人間はこの地上で生きている限り、肉体の限界があり、自分の罪の影響があり、他人からの罪の影響があり疲れを覚えて、重荷を負っていると感じているはずです。

「私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」
イエス様の約束は「休ませてあげる」です。私達は「疲れ、重荷」を完全にこの地上から無くすことはできませんが、休むことができます。そして、この約束を受ける条件はとても単純でした。イエス様の所に行くことです。私達の時代でイエス様の所に行くとは、イエス様を救い主として、神様として信じることでしょう。しかも素直に信じることです。

私のくびきは負いやすく、荷は軽い
くびき:車を引かせるために、車のながえの先につけて牛や馬のくびにあてる横木。

普通、くびきを負うように言われたら、いやだと思うのですが、イエス様は私のくびきを負うように言っています。ここで大切なのは、くびきが負いやすくて、荷が軽いからだと言ったことです。イエス様が当時パリサイ派と呼ばれていたグループを中心とした宗教界の人たちの教えと、自分に与えられている約束との違いを言っていると思います。当時の人たちは、あのこと、このことをしなくてはいけないと教えてきました。その教えを徹底して守ることによって救われるのだと信じていたのです。一方イエス様によって与えられた約束は、神様の愛に応えて自分のできる限りをして、足らなかった時も、失敗した時も、イエス様の十字架の血によって赦されて、私達が何か神様によって正しいことができたとしたら、あなたは良くやったと神様の祝福を受けるものです。この約束だから、イエス様のくびきは負いやすく、荷は軽く、私達は休むことができます。

New York Japanese Church
ニューヨーク日本語教会
P.O.Box 641, Hartsdale, NY 10530
電話: 914-902-0300 (代表会員)
メール

© 1997-2026 New York Japanese Church. All rights reserved.a


Japanese Christian Fellowship Network

Site hosted by ShowGain.TV