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礼拝メッセージ
2005年10月23日
「神様の催すパーティーについて」
マタイの福音書 22章1-14節
たとえ話の解説
王=神様。披露宴=神様の国(天国)。招待しておいたお客=祭司長、パリサイ人たち。王に遣わされたしもべ=神様から遣わされた預言者たち。通りにいて招待を受けた人たち=普通の人たち。礼服を着ていない人=信仰も悔い改めもない人。
7節は旧約、古い約束の時代が終わることを言っているのでしょう。
新約、新しい約束はどんな人でも神様に招待されています。しかし、信仰を持っていない人、悔い改めていない人はその国に入るのにふさわしくないとされるでしょう。言ってみれば、礼服はイエス様の十字架のあがないです。これは、自分で買うものでもなく、神様からすべての人が受けるために与えられているものですが、これを受けるか受けないかはその人の判断です。
もう一度考えよう
これは先週のたとえ話に続いて話されたもので、祭司長達やパリサイ人のことを話している部分があります。私達、現在のクリスチャンも神様の名の元に集まっているはずなのに、実際には神様に反対することを行なっている可能性をもう一度考える必要があるでしょう。
ねたみの神様
婚宴に行かなかっただけではなく、王様のしもべを殺してしまった人たちは、王様に滅ぼされました。神様はねたみの神様と言われています。神様の思いに応えることなく、自分勝手に生きる者はいつかさばきを受けます。このたとえ話では、古い約束が終わって、新しい約束が始まったことを言っていると思います。古い約束は旧約聖書に書かれている律法を守ることと、動物犠牲を捧げることに代表されるもので、新しい約束はイエスの血によって私達の罪があがなわれるというものです。
神様は婚宴をいっぱいにしたかった
神様は私達には想像がつかないほどの情熱を持って、どうしても婚宴をいっぱいにしたかった。誰でもいいからと人を招いた。町にいる人を手当たり次第に婚宴に誘う人は普通はいないでしょう。
礼服を着ていない人
ここでも裁きの話です。新しい約束のもと、神様のところ来る人は本当にたくさんいました。イエス様を通して、多くの人が神様のもとに行けるのです。でもそのような人の中で、神様の思いに本当に応えていない人がいます。そのような人も裁きを受けます。私はこれは、純粋なイエス様への信仰と、悔い改めのことを言っていると思います。本当にイエス様こそ、私の神様で救い主で、私は何よりもこの方を大切にするという信仰があるのか。私の罪の性質があり、すぐに自分勝手に考えるけれども、それを神様に捧げるという思いがあるのか、もう一度考える時を持ちましょう。
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