礼拝メッセージ
2005年12月4日

「本当に私の神様」
マタイの福音書 23章1-12節

パリサイ人の実践が間違っている
同じマタイの福音書の15章、16章にはパリサイ人の教えそのものに間違いがあることをイエス様は言っていますので、今日の箇所でイエス様がパリサイ人の全ての教えを肯定しているように捉えられるかもしれませんが、教えにも間違いがあるが、それ以上に彼らの実践が悪いということを言っています。

パリサイ人の実践の問題

  1. 自分に都合のいいことを教えるだけで、他の人のための教えをしていない。
  2. 人に見せたがる。自分がいかにすばらしいかを人に認めてもらいたい。
  3. 重要な人として見てもらいたい。

問題の中心は自分を良く見せたい
私達は誰でも自分を良く見せたいと思うものですが、その全てが悪いわけではないと思います。自分のしていることを回りの人に知ってもらうことが必要な時もあるでしょうし、人にわざわざみにくい姿を見せるのが迷惑な時もあるでしょう。私達が健全な思いから、自分を良く見せたいと思っているかどうかを考えてみるにあたって、いくつかの点をかえりみたいと思います。

  1. 自分のしていることを誇張しようとしていないか。
  2. 自分だけが認められることだけを考えていて、回りの人のことを考えているのか。
  3. 自分を他の人と比較していないか。
  4. 神様が私のことを見ているということを忘れていないか。

神様はすでに私達を特別な存在として見ていることを忘れないように。

先生、父、師と呼ばれてはいけない、呼んではいけない
エペソ4:11では、クリスチャンのそれぞれの役割ということで、「教師」という言葉も入っていますし、十戒には「父母を敬え」と言われていますから、私達がこの地上での生活の中で「先生」と誰かを呼んだり、「父」と呼ぶことが完全に禁じられているわけではありません。ここで大切なのは、どのような思いで人を見ているかということと、どのような思いで神様を見ているかということです。本当の先生、父、師は神様しかいないということを理解しているのかが問題です。神様と同等、あるいはそれ以上に誰かのことを見ていないかということが問題です。これは人ではなくて、団体を神様と同等のように見る危険もあります。

神様は私達の先生、父、師と呼ばれるのにふさわしい唯一のお方
聖書で神様は「私を信頼しなさい」とはっきりと言ってくれています。私達はその言葉を信じることができます。そして、その言葉を信じた時に私達に与えられる約束は、はかりしれないものです。自分が「先生、父、師」と呼ぶ人にがっかりすること、失望することはあるかもしれませんが、神様はそのように呼ばれるのにふさわしい唯一の方です。

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