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礼拝メッセージ
2006年3月12日
「弟子の覚悟」
マルコの福音書 8章31-38節
今日の聖書箇所は先週の聖書箇所の直前にあって、ペテロの信仰告白という、これまた年に一度は読まれるはずの大切な聖書箇所の直後にあります。今回のテーマはキリストの弟子です。現代でキリストの弟子と言うと誰を指すと思いますか。私は洗礼を受けている人全員と、洗礼はまだ受けられていないが、キリストに従って生きる決意をしている人全員だと思います。
イエスの死と復活の予告(31節)
イエスは自分がどのように死ぬかということを弟子たちに予告していました。それ以上にすごいのは、自分が復活することも予告していたことです。しかし、弟子たちにはその予告の意味が分りませんでした。「どうして殺されることがあるだろうか」、「殺される前に必ず神様に助けられるはずだ」と弟子たちは考えたはずです。
ペテロの反応
ペテロは弟子の中でも年長者だったのではと言われています。おそらくイエスよりも若かったのでしょう。そんな彼はきっと愛をもって、イエスにそんなことはきっとおきませんからと言いに行ったようですが、イエスはそれをサタンの働きだと言いました。神様のことを思わずに、人のことを思っていると言うのは、イエスは神様の計画のもと死ぬのですが、人間的な考えではそんなことがあってはいけないと思うので、その人間の思いがなされるようにと考えました。私達も神様の計画かどうかも分らないけど、自分たちの目から見たらこれが正しいと思うことを神様の計画と勘違いしてしまうことがあります。本当に神様によく聞ける者になりたいです。
弟子の覚悟
イエスの弟子になるならば、まず「自分を捨てる」ということです。これは決して自分を卑下するものではありません。神様ほど私達を尊い存在として見てくれている方はいません。自分を捨てるとは、私達よりも尊い方、全知全能の方に自分を預けていくことです。ここでは自分を捨てるというショッキングな言い方をしていますが、それは人によってはそれほどつらいと思う、思い入れのあるものを失うこともあるということです。ペテロにとってはそれがイエスでした。イエスを失うというのは彼の中で考えられないものでした。
「自分の十字架を背負い」というのは、言い換えれば「命をかけて」と言えますが、ここでも注目すべきことはこのショッキングな言葉です。なぜ死刑の道具を背負ってと言うのかは、きっとイエスに従うものには苦難があるからでしょう。
苦難の一つに恥というものがあります。私達は神様を信じる者として生きるならば、この地上で自分が恥ずかしいと思えることもありますが、周りと同化して神様を信じる者が恥ずかしくて、自分は関係ないと思うようになってはいけないと警告しています。
命が与えられる
イエスに従う者には命が与えられるというのが、今日の大切な約束です。
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