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礼拝メッセージ
2006年4月2日
「栄光の時」
ヨハネの福音書 12章20-33節
先週に引き続き感情について最初に話したいと思います。私は感情的な話を教会のメッセージではしないように心がけています。感情的に「神様はすばらしい」と思っても、自分の意志の部分と知的な部分で神様を信じるようにしなくては、信仰とは言えないからです。感情は時には一時的なもので、長続きしないものです。だから聖書の多くの部分が感情的な語り方をしていないのだと、私は思っています。しかし、今日の聖書箇所は違います。イエス様の思いが情熱的に書かれています。今日はその部分に注目していきたいと思います。感情的になることに関して、聖書では禁じてはいません。ただし、最初に述べたように私達は知的に神様の約束を理解して、自分の意志によってその約束を受け入れることによって信仰が芽生えます。
栄光を受けるその時が来ました
イエスはご自分が十字架に架かる時が近づいている時にこのように言いました。十字架に架かることが、大きな苦しみであることは27節を見ても分ります。十字架で死ぬ姿はサタンが勝った瞬間のようにも見えるでしょう。しかし、このことを通して神様の栄光が現わされるのです。神様の計画は人間の思いをはるかに越えている。私達も自分の周りに起きているできごとを神様の視点で見ることができるだろうか。自分ではすごいと思っていることが、実はすごくなかったり、悲惨に思えることが神様の栄光を現わすことだったりしないだろうか。
一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結ぶ
これは、ユダヤ人ではなくてギリシャ人の人までがイエス様に会いたいと言ってきたことを聞いて、これからご自分がどのような存在になるのかを言っています。明らかにこれは十字架でイエスが死ぬことによって、たくさんの人が救いを受けて、天にある永遠の命を受けることを言っています。
この死ぬということは、イエスが最初に私達のために行ってくださったことです。次にイエスは私達にイエスに倣う者になりなさいと教えています。(25-26節)私達はここで神様にある自己否定を学ばなくてはいけません。神様にある自己否定は理解が難しいです。なぜなら常に二つの相反するものを理解しつつ、神様という私達の理解できない存在を理解しようとしなくてはいけないからです。相反するものとは、神様は私達を素晴らしい神様に似せた者として創ったということと、私達は神様の前に罪ある者であることです。私達は神様の素晴らしい作品であって、私達は誰一人失敗作ではありません。神様は決して私たちを小さな者として見ていなくて、逆に大切な宝として見ています。しかし私達は神様の前には罪ある者であって、私達の普段の思いは気がつけば神様に反対しています。私達はこの自分の思いを神様に捧げて、神様の教えに従うということが神様の自己否定ですが、この神様の思いが私達にはなかなか分らないものなので困ってしまいます。
このみ言葉は多くの伝道者を励ましてきたものです。宣教に命をかけた人たちは文字通り、地に落ちて死にましたが、その結果多くの身を結んでいます。
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