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礼拝メッセージ
2006年7月2日
「いやしと信仰」
マルコの福音書 5章21-24節
今日の聖書箇所は二つの癒(いや)しの話の始まりの部分です。ある会堂管理者の娘の癒しの話の中に、一人の女性の癒しの話が入っています。二つの癒しの話の共通点は、人間にはどうにもならないことについて、神様が助けたということと、イエスが二人に対して信じることについて教えていることです。
長血をわずらっている女
おそらくこの女性がわずらっていた病は、女性のものだったと思われます。当時のこの社会では、このような病を持っている者は、汚れている者とされて、行動が規制されていました。この女性がイエスの前に出て癒してくださいとお願いできなかったのは、おそらくこの汚れていることが問題だったのでしょう。そして彼女なりに考えた結果が服に触るということでした。彼女は服に触ればいやされると信じました。その信仰によってその女性は癒されました。
会堂管理者とその娘
会堂管理者と呼ばれる人は、ユダヤ人がそれぞれの地域で神様を礼拝するための会堂を持っていたのですが、そこで誰が聖書の朗読をするのかとか、誰が聖書の学びを導くのかなどを決めていた人です。イエスは最初群集に受け入れられていて、このようないわゆる社会的に地位のある人からはあまり受け入れられていませんでしたが、この会堂管理者は違いました。きっとイエスならいやしてくださると信じたのです。その信仰にイエスは応えました。死んだという話を聞いても、イエスは「ただ信じていないさい」と言いました。その結果が一度死んだ子供が生き返るという奇跡のできごとでした。
イエスは癒すお方という信仰
ここで信仰が癒しを導いたということを最初に確認しましょう。神様は人の信仰を喜びます。私達も本当に信じて祈っているのかということを神様は見ています。しかし、信仰よりももっと大切なことに私達は目をとめなくてはいけません。それはイエスです。イエスが癒し主だから癒されたのです。このことは今も変わりありません。私達はイエスが癒し主であり、また私達の他の問題も解決できる方であるからこそ、信じて祈ることができ、その時、イエスは祈りに応えてくださるのです。
謙遜と信仰の関係
聖書では人に頼るのではなく、主に頼りなさいと教えています。自分の力に頼る者は謙遜ではないと言われるのですが、ここで大切なことは、私のどうにもできない問題だけではなくて、私の存在自体も神様がいなくては何も始まらないのだ、神様は全ての支配者なのだということを理解しているかどうかです。その理解のもとに、「神様にあって私はできる」と信仰をもって問題に取り組んでいくことが求められています。 |