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礼拝メッセージ
2008年6月29日
「洗 礼」
使徒の働き 10章44-18節
神様の教えは理解しずらいものが幾つもあります。特に神様の恵みについて語られる時、私たちの常識からあまりにも離れているから理解するのが難しいです。私たちが罪赦されて、神様の子供とされると言うのは、私たちに値しない、神様の一方的な贈り物によるもので、それを恵みと呼んでいます。私たちの常識では理解しにくい、神様の恵みによって私たちは神様の子供とされます。
洗礼によって人は救われるのではない
聖書を読んでいけば、明らかに人は信仰によって救われるということが分かるはずです。人は時々ここを勘違いして、洗礼を受けたら救われると思います。洗礼は信仰を持った人が公に信仰を告白して、キリストの体であるキリスト者の群に加わることを公に表す意味を持っています。また、水に入り出てくることを通して、自己中心的な生き方から死に、キリストにある新しい命によって生き返ることを象徴した儀式です。ですから、これは信仰を持って救われている人に意味のある儀式です。(マタイ3:7-8)(使徒10:44-48)
では、信仰を持つとは
信仰を持つといのは、とても抽象的で分かりづらいと思います。キリスト教の信仰を持つためには、どれだけの知識をもっていなくてはいけないと思いますか。どこまで、はっきりとした信仰をもっていないといけないと思いますか。もうこれは、本当に人それぞれの意見が出てくると思います。そこで、ここではそのことについて書きませんが、私がどうしても強調しておきたいことは、私たちは神様に愛されています。命を懸けて愛されています。この愛に気がつき、その愛に応えることが信仰を持つことの根本です。
今
私たちの信仰生活の大事なKEY WORDは「今」ではないでしょうか。今私たちは神様とどのような関係を持っているでしょうか。子供とされているでしょうか。その愛に気がついているでしょうか。その愛に応えているでしょうか。洗礼はそのことを明確にしてくれる意味で、大切です。洗礼に立ち会う今日、私たちはそれぞれが自分の今の状態を考えてみてはいかがでしょうか。
教会が授ける
洗礼は牧師が授けるものではありません。牧師は教会の代表として、神様の儀式を執行する司祭として洗礼式に携わっているのであって、洗礼を授けているのは、この地上でのキリストの体である、キリスト者の群、つまり教会が授けているのです。このNY日本語教会での洗礼式ということは、NY日本語教会がキリストの体である教会の代表として、洗礼を授けているのであって、洗礼を受けたものは、NY日本語教会の一員になるのです。教会としては、喜ぶべきことですが、同時に責任を受け取る日でもあります。私たちはキリストの体として、一人の人を受け入れるのです。この新しく加わる者を愛し、受け入れる責任が与えられる日です。
水の洗礼、聖霊の洗礼
私たちが教会で授けているのは、水による洗礼ですが、その洗礼を受けていなくては聖霊による洗礼を受けられないと思っている方が多くいるようですが、それも誤解です。今日の聖書箇所では、水による洗礼の前に、聖霊による洗礼を受けていることが分かります。聖霊による洗礼は目に見えないものなので、区別しにくいものですが、確かにあるもので、それぞれに与えられるものです。
天でも喜びの声があがっている
一人として滅びてほしくないというのが、神様の願いですが、救いを受け入れる人は少ないものです。一人でも救われたのならば、天において大きな喜びがあります。(ルカ15:7) 神様の子供とされたことを、私たちは喜びますが、神様は私たち以上に大いに喜んでいます。 |