礼拝メッセージ
2008年9月28日

「マタイの献身」
マタイの福音書 9章9-13節

献身
教会用語で「献身」と言いますと、神様に全てを捧げるということで、教会のために働く人、つまり宣教師や、牧師になることを意味することがあります。しかし、ここでは神様に身を捧げるという本来の意味で使いたいと思います。

献身するのは難しい
私は牧師なのでよく分かるのですが、自分の全てを捧げるつもりで、今の立場になったのですが、毎日、神様に自分を捧げることに戦いを覚えています。そして、時にはこの部分で自分は神様に捧げていなかったと明確に悔い改めることがあります。牧師になったからと言って「献身」しているわけではないのです。ローマ人への手紙12章1節では、「体を聖なる供え物として神に捧げなさい」と勧めています。実際にそうしているのですが、体はまさに生き物ですから、捧げたはずなのに、戻ってきてしまうことがあるのです。

御言葉(みことば)に一瞬一瞬従うこと
私は献身を一言で表現するのならば、「御言葉に一瞬一瞬従うこと」と言います。一度捧げたという体験をすればいいわけではなく、その時その時、神様に身を捧げることであって、身を捧げることはつまり御言葉に従うことだと思うのです。もちろん、その前提として、神様の存在や、イエスによって与えられた福音や、神様につながることの喜びを理解して、信じていなくてはいけませんが。

生活の一部分だけ献身ではなくて
毎日礼拝して、献金も充分して、困っている人を助けることをしていて、でも献身していないという人がいてもおかしくないと思います。生活の一部分ではそのようにしていながら、神様に教えられていることを無視し続けてしまうことだってあるのです。生活の全ての出来事が神様にあって、なされているのかを吟味すると、私たちはできていない部分にも気がつくと思います。そのできていなかった部分については、素直に悔い改めるしかありません。そして、気持ちを新たにして、一瞬一瞬神様の御言葉に従うことで献身できていくのだと思います。

マタイの話
マタイは取税人でした。そのため当時の社会では、神様を信じる者としては受け入れられにくい人でした。マタイの福音書9章の前にマタイがイエスとどのような関わりを持ったかが書かれていません。しかし、マタイの福音書5章から7章までは、山上の説教と呼ばれるイエス様のした話が書かれています。私が勝手に思っていることですが、マタイはこの山上の説教を聴いていたのではないでしょうか。そして、神様に従いたいと思っていたのではないでしょうか。マタイはそのチャンスをイエス様からいただいた時、即断してイエス様についていきました。そして、その後イエス様はホセア書6章6節から引用して、全ての人が神様に身を捧げることができることを話しました。

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