礼拝メッセージ
2008年11月30日

「主を待ち望む」
コリント人への手紙 第一 1章3-9節

アドベントをむかえました
アドベント、クリスマスの時期に毎年思うのですが、「この時期に学ぶこと、考えることは別にこの時期だからってわけではなくて、いつでも覚えていなくてはいけない信仰の中心部分」だと思います。そのことをこの時期に特別に覚えることができるというのは、本当に神様が与えてくださった大切な期間だと思います。

  1. 救い主を待つ
  2. 主はへりくだられた
  3. 主の降誕に用いられた人たちがいた
  4. 主の降誕は本当に神様から贈り物だった

救い主を待っていた人たち&今も待っている人たち
救い主がやってくるということが、私たちが旧約聖書と呼んでいる聖書に書かれています。ユダヤ人たちは熱心に待ち望んでいました。イエス様の降誕の時は、ごくごく少数の人しか救い主が来たことを知ることができなかったのです。今現在も私たちは救い主を待っています。聖書では救い主がもう一度この地上に現れて、新しい天地を創ると約束しています。その時はイエスの降誕の時とは違って、もっと多くの人たちが、イエスを信じるもの達が、やってきたことを理解することができると約束されています。

マタイ24-25章、マルコ13章、ヨハネの黙示録21章などなど
初めてこの「主の再臨」とか「終末」と呼ばれる出来事について聞く人にとっては、どうして、そんなことが聖書に書いてあって、またそれを信じている人たちがいるのかと驚くと思います。
この終末のことに関しても、十字架のできごとと同じで、その根本には神様の愛があります。神様は一人一人を愛しているので、全ての人の罪をあがなうことができる犠牲として、イエスが捧げられました。これが十字架のできことです。その後、その福音を聞き、信じた人たちがいます。その信じた人たちはそれぞれこの地上での生涯を終えた後、神様のもとに永遠に生きるのですが、この地上にいる人たちの生活は変わりません。いつまで、この不完全な地上での生活が続くのでしょうか。戦争はどこかであって、身近にも人殺しまではなくても、人格を否定するような事件が多くあり、それぞれの苦しい時があります。その時に終わりを与えるのも神様の愛から来ているものです。マタイの福音書25章では、婚宴が終末の時のたとえとして出てきています。もし終末の時がただ裁きの時であるなら、婚宴がたとえには用いられないでしょう。

いつがその時なのか
今日かもしれないし、明日かもしれませんが、マルコ13章32節にはっきりと「ただ、父だけが知っておられます」と書いてありますから。私達には分かりません。時々、だれかが「色々と調べた結果、何年の何月あたりでしょう」と言う人が出てきますが、そのような話は聞き流すべきだと思います。私達はただ神様だけが知っていると教えられています。
私達は救い主がやってくるのを待っているのです。イエスの時代の人たちよりも私達は、もっとはっきりと救い主を待つことができます。それは、イエスの霊である聖霊を受けているからであり、救い主がどのようなお方であるかを知ることができているからです。

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