礼拝メッセージ
2009年1月18日

「信じること」
マタイの福音書 12:38-42

信じない人たちが求めたこと
イエスはもうすでに多くの病人を癒す奇跡を行っていたので、その力あるみわざと、神様の聖なる性質と愛と知恵に満ちた言葉によって、多くの人がイエスを神様から遣わされた者として信じていました。しかし、当時の指導者層の人たちである律法学者とパリサイ派の人たちは、イエスに「神様から遣わされた者であるのならば、その者にふさわしい証拠としての奇跡を見せて欲しい」と言いました。この人たちは何を見たら信じたのでしょうか。この人たちは自分が信じるのは、神様が十分に信じることができる証拠を与えた時だと考えているので、神様を試していると言えるでしょう。

ヨナの話との比較
イエスは「しるし」を見せて欲しいという言葉に対して、ヨナの話と比較してどのような「しるし」が与えられるかを話しました。ヨナの話は旧約聖書のヨナ書に出ています。ヨナは大きな魚の中に三日間入っていて、そこから出てきて悔い改めるようにニネベという町の人たちに説いたら、町全体が悔い改めたという話です。イエスはこの話と比較することによって、自分が死に三日目に復活することを予告しています。私がこの比較する話で注目するのは、ニネベの人たちはヨナが魚の中にいたことを見ていないことです。私たちもイエスが死者の中から復活したことを自分の目で見ることはできません。しかし、そのメッセージを信じることができます。また、イエスは南の女王がソロモンに与えられた知恵を見たくて、わざわざ訪ねてきたことを話して、求めることの大切さを話しています。

奇跡を待つことではなくて、信じること
クリスチャン生活の中では忍耐を学ぶことが多くあります。神様の時が来るまで待ちましょうと言って、何かをゆだねる時が多くあります。しかし、神様の存在を信じること、神様の偉大さを信じることは、待っていることではなくて、今すでに信じることができるというものです。なかなか信じることができないとしても、少なくとも南の女王がソロモンに会いに来たように、神様を訪ね求めることができます。私たちは奇跡を見なくても信じることができます。信じている者は奇跡を見たときにその信仰がますます強いものになりますが、信じていない者にとっては奇跡を見ても、その奇跡を神様からのものとして受け入れることができなくて、結局神様のことを信じることができないこともあるようです。

神様はいる、その存在は確かに偉大だと認めることから
私たちの信仰の基盤になるのは、神様の存在とその偉大さを認めることです。聖なる性質とか、神様の愛とか福音の意味とかを考えていくと、難しく思えてきて、理解できないから信じることができないと思えることがあります。しかし、神様の存在とその偉大さを信じることはできることは、単純にできることではないでしょうか。ローマ人への手紙1章20節ではそのことを、「神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」と書いてあります。

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